12代将軍・徳川家慶の命を受け尾張藩が創建した “木曾山林の総鎮守”中津川市付知町の護山神社が、180周年を記念し、地元のアートピア付知交芸プラザで社宝を初公開しています。
同神社奥社は天保11(1840)年、同市加子母の裏木曾国有林内出の小路(いでのこうじ)に、時の将軍・家慶の命を受けた尾張藩が創建。
天保9(1838)年、大御所・徳川家斉の住居、江戸城・西の丸御殿が火災で焼失。再建用材を調達するため、伊勢神宮の御用材以外伐木が禁じられていた出の小路で伐採したところ、山鳴り・怪異・山火事等が続出。社伝「将軍家慶、尾州藩主斉荘、又(同時に)妖夢に悩まされ怪異江戸城大奥に及ぶ」とあり、大量伐採に対する山神の祟りと考えた幕府は出の小路に急使をたて、総ての切株に注連縄を張り巡らして祭典を執行。天保11年(1840)年には将軍の命を受けた尾張藩主・徳川斉荘が奥社を創建。
3年後、「木曾山を鎮護するため」付知に創建された里宮が現在の護山神社で、創建費用の2万両は幕府が負担。尾張藩主からは、3口の御剣(「直焼刃装具五纏」政秀作)が寄進されました。
陰暦3月25日の例大祭には、藩主御代拝が特使として参向。神饌・神器を納めた徳川家の葵紋章付き白木辛櫃=写真左=を担いで行列を組み、熱田神宮の御神楽方を派遣して「太々神楽」を奉奏。木曾上松材木役所御陣屋から名代をたて幣帛料を供進。
天保15(1844)年には将軍・家慶が御台所作の絵馬額「押絵櫻木鞍置馬之圖」=写真右=を奉納。尾張藩では、その後も消失した江戸城本丸御殿の再建時や黒船襲来等国難の折々に藩主御代拝を特使として護山神社へ参向させ、国家安穏の祈願祭を執行。
藩の祈願社であると同時に、木材の乱伐を禁じた木曾林政の象徴として歴代藩主の崇敬は篤く、美濃の地にありながら『尾張十社』の一つに数えられていました。
今回は、こうした歴史を知ってもらおうと、新型コロナワクチンの集団接種会場となったアートピア付知交芸プラザに、現在、市文化財申請中の御剣の写真と将軍寄進の絵馬額、葵の御紋付き白木辛櫃、神器などを展示。
6代目宮司の田口豊年さんは「昔の宮司宅には、特使が参内する際利用した籠を置くための広い土間がありました。将軍家や尾張徳川家との深い関わりを知ってもらう機会になれば」と話しています=写真。展示は8月末までの予定。